お待ちどうさま。

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くっくっくっと

箸がお皿の淵にあたる。

 

ぱちぱちぱちと

油が軽やかに飛び跳ねる。

 

じゅうじゅうじゅうと

卵がうっすら焦げ目を纏う。

 

永く身体に染みついた

その変わらない優しい香りを

ぎゅっと、抱きしめるように吸い込む。

 

 

母の作る卵焼き。

 

幼い頃からわたしは

あれ買ってこれ買って、と

わがままを言わない子だった。らしい。

 

そんなわたしが唯一、

遠慮なしに言えるわがままは

「 卵焼き食べたいな。 」

だったりする。

 

そして今朝も例外なく。

 

母もそれを待ち構えていたのか、

冷蔵庫にはきちんとたまごたちが

列を成している。

 

ものの5分とちょっと。

湯気を上らせ 食卓にお出ましするまで

掛かる時間は、

そんなところかしら。

 

ソファに身体を埋(うず)め、

台所に立つ母の姿をこっそり覗く。

 

エプロンを纏う姿に、

手際の良い手元に、

毎度惚れ惚れする。

 

 

さて。

 

針がひとたび動けば

おなかはぐうっと悲鳴をあげて

心はふわりと浮き足立つ。

 

“ 待つ ”ということ。

 

退屈でどうにも好きになれない

わたしも居たけれど、

案外退屈にしているのは

わたしだったのかもしれない。

 

ひとが時を過ごすとき、

それはふたつに分けられる。

 

消費する時間と、生産する時間。

 

5分とちょっと。

卵焼きが出来上がるまでのそれは、

生産する時間のように思う。

 

5分とちょっと。

卵焼きをより美味しく食べるための、

支度の時間。

母の愛を、想像する時間。

母とわたしの、言葉要らずの優しい時間。

 

そんな時を経て口に運ばれる卵焼きは、

ほろりほろりと

贅沢な愛が、優しさが

染み込んでいる。

 

 

“ 待つ ”ということは、

見えないものを支度すること。

静かな助走であり、

静かな序章でもある。

 

待つことの先に、何が待つのか。

 

待つことを何度も重ねる。

その先に残されたものが、

あなたの生きる所以なのかもしれない。

 

 

あなたは

なにに待たされているのだろう。

誰に待たされているのだろう。

 

世界にわたしがひとりであったのなら

待つものはただひとつ、

“死” である。

 

 

待つものがあること。
待つひとが居ること。

 

それはどうしようもなく、

幸せなことかもしれない。

 

そんなことを思いながら

わたしは今も、待っている。

 

最後のひと切れをいつ頬張ろうかと

絶妙なタイミングを、待っている。

 

 

ひょいっ。

母の箸で、

それは呆気なく終わりを告げる。

 

なるほどなるほど。

どうやら待ちすぎるのも、

良くないらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

命短し 恋せよ乙女。

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命短し 恋せよ乙女

 

耳に残るフレーズだ。

 

『ゴンドラの唄』(1915) の

冒頭部分である。

 

そして、こう続く。

 

紅き唇 褪せぬ間に

 

赤い口紅をひく乙女でいられる時間は、

案外短いものなのよ。

 

そんなふうに

言いたいのかもしれない。

 

 

ひとはやがて、死を迎える。

生命にはいつも、終わりが付き纏う。

 

そして、呼吸を止めるそれとは別に

動く心臓は、生命は、あるように思う。

 

乙女でいられる時に

終わりを告げる口があるように、

その口は何度でも告げてしまう。

 

生命を身篭ること。

おなかを大きくしたお母さんにも

それは付き纏う。

およそ10ヶ月間。

 

働くこと。

時代が変わりつつあるとは言え

わたしの年齢からすれば

せいぜいあと50年。

 

物事の大小、短長はどうであれ

生きていく上では

幾つもの寿命があるようだ。

 

 

話はがらりと変わる。

モチベーションの話をしよう。

 

何をするにおいても

モチベーション、

つまりは動機づけが存在する。

 

「 あなたのモチベーションは? 」

 

わたしは、

誰彼構わずこの問を投げる。

 

お気に入りの解を、ここに置く。

 

気付いてしまったから。

 

至極シンプル。

 

見る。聴く。触れる。

そして知る。気付く。

 

もっというと、

そこにそれ(自分を突き動かすもの)が

落ちていただけ。

それだけのようだ。

 

恋をする動機も、

同じことかもしれない。

 

 

さて、話は戻る。

 

生命と動機づけ。

ふたりは強く結びつく。

 

動機づけるもの。

終わりを告げるもの。

 

その両者がいてはじめて、

ひとは動く。動かされる。

動かずにはいられない。

 

今ある想いは、

明日には無いのかもしれない。  」

 

まったくその通りだと思う。

それだけ想いとは曖昧なものだ。

 

そしてもしかすると

動ける身体さえも、

明日には無いのかもしれない。

 

なあに。

気落ちする必要は無い。

 

今日ある生命を

今日のあなたが使えばいい。

 

今日のあなたは

今日のあなたが満たしてあげよう。

 

明日のあなたは

明日のあなたが満たしてくれるから。

 

 

終わりを告げること。

 

ちょっぴり虚しくて、

ちょっぴり儚い。

それでいて美しい。

 

恋をしよう。

乙女でいれる限り。

 

好きと言おう。

好きと言える声がある限り。

 

抱きしめよう。

抱きしめられる身体がある限り。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

迷える子羊は、幸せなのよ。

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“ 迷うこと ”

生きていれば皆、

何度も何度もそれをする。

 

あなたは、

迷うことは好きだろうか。

 

 

迷う、には

迷わせる選択が付き物である。

 

選択肢が多ければ多いほど、

ひとは迷うことが出来るのだ。

 

 

ぐう。

おなかが鳴る。

今日は丼物の気分かしら。

 

定食屋の暖簾をくぐる。

メニューを開く。

 

・海鮮丼

・親子丼

 

ほう、それならばと

親子丼を注文する。

 

 

はたまた、他のメニュー表。

 

・海鮮丼

・親子丼

・カツ丼

 

ぐぬぬ、悩ましいぞと

頭を抱える。

 

 

さて。

最初の問いへ戻る。

 

“迷う”という行為。

あなたは好きだろうか。

 

わたしは好きだ。

だから選択肢は多いほうがいい。

親子丼かカツ丼か、

気が済むまで悩めばいい。

 

ひとつ言っておきたいのは、

どちらにせよ、

選ばれるものはひとつということだ。

選択肢がいくつになろうと、ひとつだ。

 

それでも。

選択肢が多いことは、迷うことは

悪いことではないと思う。

 

なぜなら

迷うことは、

わたしの大事なものを思い出させてくれる。

 

選ぶうえで、

大事にしていることは?

 

いつもそう問い直してくれる。

 

直感もいいけど

自分の物差しで、選んでみる。

大事にしたいことを信じて、選んでみる。

 

納得したいのだ。

最後に残る、ひとつの答えに。

 

納得するために、迷うのだ。

 

 

箸を置く。

「 ごちそうさまでした。」

 

伝票には、

《海鮮丼》の走り書き。

 

悩んだ末に行き着いた答えは、

案外面白い。

 

 

 

 

 

 

 

作ること、使うこと。

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この世界には、
作ること、使うこと。
ふたつが隣り合わせに存在する。

傘の柄を握り
ビニール越しの空を仰ぎながら、
そんなことを考えていた。

 


雨が降る。傘を差す。

雨を作ったのは雲で、
雲を作ったのは海だ。

傘を作ったのは、
顔も名前も知らないあの子かしら。

作ること、使うことが在ることは
作るひと、使うひとが居ることを意味する。

ごはんを食べる。
電車の吊革を握る。
お布団に身を包む。

果たしてわたしは
何を作ることが出来ているのだろう。

せっかくこの世界に産み落とされたからには、
作ること、使うこと
どちらも担ってみたい。

ちっぽけな好奇心である。



わたしにとって、
作ることは表現することだ。

既に作られた言葉を。
筆と紙を。
こっそり拝借して、表現してみる。

わたしの表現した、作り出したそれを
だれが、どんなふうに使ってくれるだろう。

 

 

灰色の雲をぎゅっと絞る。
最後の一滴がアスファルトに着地する
そのときまで。
ゆらりゆらりと答えを待つとしよう。










ぴたりと似合う言葉を。

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“ 似合う ”を見繕うこと。

 

わたしの得意なものリストに

最近加えられた項目である。

 

 

愛する彼に靴下を。

愛する彼女に花束を。

 

記念日でもなければ

誕生日でもない。

 

そんな『ある日』を

特別な日』にしてしまうことが

人生の楽しみだったりする

 

そのひとの顔を思い浮かべて

なにかを見繕う瞬間が、

どうしようもなく好きだったりする。

 

そしてわたしの見繕ったものは

どうやらその対象に“似合う”ことが

少しばかり多いらしい。

 

 

見繕うことは、

まずはじっと対象を見つめること

から始まる。

 

触れて、感じて、焦点を当てる。

どんな顔をしていて

どんな温度を纏っていて

どんな彩りを含んでいるのかしら。

そんな調子で。

 

見繕うことは、

対象にぴたりと添うものを選ぶこと

で初めて完了する。

 

うん、これだ と

力強く頷けるだけ迷ってみたり。

ああ、どうしたってこれだ と

まっすぐ直感を信じてみたり。

 

 

さて。

これまで見繕う“対象”と

わざわざ暈(ぼか)してみたのは、

わたしが見繕うのは

ものばかりではないからである。

 

“ 言葉を見繕う ”

誰でも瞬間的にするであろうこと。

 

それをわたしは

なるだけエネルギーを掛けて

時には時間もかけて、

愛を込めて、生命を込めて

やってみようと試みている。

 

産まれたての感情。

触れて、感じて、焦点を当てる。

 

どんな名前を付けようかしら、と

ぐるりぐるりと考えてみる。

時にこれだと、舞い降りる。

 

そしてようやく、言葉になる。

ぴたりと似合う、言葉になる。

 

 

今日はあの子に、

どんな言葉を贈ろうかしら。

 

今日はこの世に、

どんな言葉を産み落とそうかしら。

 

いつもよりちょっとばかし

丁寧に見繕ってみよう。

 

とびっきり似合う

とびっきりお気に入りの

お洋服を着て出掛ける日は、

なんとも胸が踊る。

 

とびっきり似合う

とびっきりお気に入りの

言葉を紡いで手渡せる日は、

なんとも胸が高鳴る。

 

 

『ある日』を『特別な日』に。

ぴたりと似合う、あなたの言葉を。

 

 

 

 

 

 

 

掬うこと。

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星に願いを。

とはよく言ったもので、

 

“ 夜空に流れる星に

3回お願いごとをすると叶う。”

 

物心ついたときには、

既にその魔法を知っていたように思う。

 

あの頃のわたしは

なにを願っていたのかしら。

 

 

そんなわたしも22歳。

変わらず願うことは続けている。

 

表現者で在りたい ”

わたしがわたしに手渡した、

初めての願いである。

 

星に願うことと同じくらいに、

わたしにも願ってみたい。

そんな心地良いわがままを

漸(ようや)く見つけた。

 

 

表現することが

どうしようもなく好きなわたしと

表現することが

どうしようもなく怖いわたし。

 

そんなわたしの背中に

手をそっと添えてくれた言葉がある。

 

母の教え子である、

6歳の男の子の作文の一節。

夏休みがお題として与えられて、

彼は家族と行ったキャンプの夜を切り取った。

 

『 星が見えて目がキラキラして、眠れなかったです。 』

 

 

はっとした。

この表現は、彼にしか出来ない。

彼というひとを介したその先に生まれるものに

ただ名前をつけてあげているだけだから。

 

そしてそれと等しく、

わたしの表現もわたしにしか出来ないではないかと。

 

表現することは、

心に触れる。

生まれるものを待つ。

生まれたものを掬う。

それだけのことかもしれない。

 

優しく触れる。

ゆるりと待つ。

そのまま掬う。

 

それだけのことに、

どれだけの愛を注げるか。

試してみようと

期待してみようと

願ってみようと思う。

 

 

scoop

 

掬う、という意味を持つこの名を

わたしの小さな世界に与えてみる。

小さく小さく踏み出してみる。

 

 

そのしるしをここに置けること。

ひとりお祝いするとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前提の要らない関係性。

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「 別に大した話ではないんだけどさ、」

「 わたしが言うのも烏滸がましいけどね、」

 

そんな調子で

ねえねえ聞いて、と

話しはじめることは常である。

 

ふと。

ひとはどうしてこうも

手前に言葉を置きたがるんだろう、と

疑問符がむくりと頭を擡(もた)げた。

 

わたしの思いつく限りで

小さく小さく解いてみたい。

 

 

前置きに含まれる意図。

 

きっと、シンプルに

自分を守るため。

それだけのような気がする。

 

前置きは、クッションだ。

もふもふの、ぎゅっと羽根たちを抱きしめた

新品のあの子だ。

 

あの子の役目は

そのあとに追っかけてくる言葉を、

美しく飾ってあげる。

追っかけるための安心を、

約束してあげる。

そんなところかしら。

 

ひとつ言いたいのは、

わたしはそれに対して

どうこう言うつもりはないということ。

 

前置きを並べたぶん

安心を手に入れられるのなら、

いくらでも並べて欲しい。

 

本編の行方も分からなくなるくらい

ずらっと一列に並べちゃえばいい。

 

 

さて。

(ほおら、前置きは長いものでしょ。)

 

そんなわたしには、

前置きを据えずに

(本でいうのなら序章を飛び越えて)

話を始められる友人がいる。

 

前提の要らない関係性

そんな肩書きがぴったり似合う

わたしたちである。

 

ほかのみんなと何が違うのかと

ひとつ挙げるのならば

安心材料の多さ、かしら。

 

わかってるから、大丈夫だよ。

彼に、そんな言葉を

手渡してもらったことがある。

 

わたしの本質、素地*を

どうやら分かってくれているようだ。

 

言葉の奥にある想い。

想いの奥にいるわたし。

いつもまとめて、

ふにゃっと受け取ってくれる。

 

わたしが支度しなくとも

彼がクッションを持ってくれているのか、

はたまたお互いが柔らかくいれば

クッションは必要ないのか。

(今度彼に聞いてみるとする)

 

とは言え、

彼から手渡された目には見えないそれらが

前置きに代わる安心材料になっている。

 

ひと と ひとが重なる上で大事なものは

繕う言葉の多さより、

解く言葉の多さかもしれない。

 

ひと と ひと、

素地と素地を重ねて

優しく優しく織っていくことを

遠く遠くまで続けてみればいい。

 

 

“ 前提の要らない関係性 ”

 

そんなシンプルな関係性に

なんだかどうしようもなく

優しさと温もりと心地良さを感じて

 

もう、適わないなあって

今日もふにゃりと えくぼを浮かべる。

 

pm 8:00

しばらくすると、

星たちが優しく顔を出すだろう。

 

丁度いいところに来たね、と

近くのそれらを手招きして始めよう。

 

「 ねえねえ、聞いて 」

 

 

素地* 加工されていない自然のままの状態。