挑戦はいつも等しく。
先日リリースした〝CAMPFIRE Youth〟。
わたしにとって、心からお祝いしたいと思う深く温かな吉報だったように思う。
https://campfire-youth.com/
冒頭の言葉を拝借するのなら、
「若さを理由に、夢を諦めてはいけない」。
本当にその通りだと思って生きてきたし、
このお仕事を始めて、日に日に強くなっている想いである。
若い子たちの前に、
どうしたって立ちはだかる壁がある。
それは知識や経験といった、目に見えずとも逞しく高いものなのだろう。
生まれて23年目でCAMPFIREに出会い、
毎日何十ものプロジェクト、そしてそこに在る想いに触れてきた。
働きながら、そしてそれまでの23年間で、
『自由に生きること』を妨げるものに、「生まれてきた順番」が含まれるということが、
どうしようもない悲しさややり場のない憤りとなり、いつも持て余していたように思う。
「18才にしかできないこと」は
何一つ無いのだと思う。
その代わりに、
「18才だからできないこと」も
何一つ無いといいなと思う。
大学時代に出会った、
沢山の中学生や高校生の顔が浮かぶ。
「夢なんてない」と彼らは言ったが、
本当はちゃんとあることをこっそり教えてくれた子もいた。
「夢(を叶える術)なんてない」
「夢(を叶える武器)なんてない。」
彼らが声を潜めたそれを、
クラウドファンディングを介して叶えることはできなかっただろうか。
そして、今からでもできるだろうか。
せっかく生きているんだから、
めいいっぱい挑戦して、めいいっぱい失敗して、めいいっぱい表現してみたらいい。
応援なんて言葉を飛び越えて、
一緒に生きるを表現できるひと。
そんな優しいキュレーターを目指したいと思う。
応えるための、期待じゃない。
生まれて初めて、「リーダー」という肩書きを頂いた。
ふいに上司に手招きで呼ばれ、自然と頷くわたしがいた。
「ただ、あなたに期待値を込めたくて。」
そんなふうな理由である。
思わずくすりと笑う。
それと同時に、手渡してもらったそれはふわりと軽やかに、優しく肩の上に舞い降りた。
そもそもリーダーとは、どういった役割かしら。
まずはわたしにとってのリーダー像を探すところからだ、と妙に興奮して、久々に自分に大きく期待したくもなった。
それを受けて、変わったことは沢山ある。
正確に言うと、今までの想いや意思、志や願いの先に広がるものに、ちょこんと触れた感覚。
前に進みはしなくとも、確かさが増したようなそんな気もした。
後後のわたしのために、備忘録として記そう。
まずは「わたしが働くこと」と同じくらいかそれ以上に、「あの子が働くこと」も大事にしたくなった。
見逃していたかもしれないひとりひとりの瞳の動きに目を凝らし、息遣いに耳を傾ける瞬間がじわりじわりと増えてきた。
みんなが心地好く働ければいいなという想いはそのままに、その一部であるだけでなく、それら全部まとめて守りたくなった。
守るために強くなりたいと思った。
時には優しさの形を変えたいと思った。
どうしようもなくチームが好きだし、
どうしたって譲れない愛おしい仲間だと思った。
たまには先回りしてみたいし、時には一番後ろについて、ひとりのんびり見守りたいなとも思った。
何ひとつ後ろ向きに感じるものがないのは、
もしかすると驚くべきお祝いなのかもしれない。
でもその理由もちゃんと明らかで。
わたしの仲間が素敵すぎるおかげだし、
何よりリーダーの在り方を定義しないまま手渡してくれた、懐深い上司のおかげ。
考える余白があることで、自由と安心と、それから多様であることを許してもらえた気がするよ。
「期待値を込めて。」
そう言ってもらえたことが、何よりの希望だと思う。
ただ、「期待」とは、応えるためにあるのではない。
最近はそんな気がしてならないし、
そうであって欲しいなという願いも込めて。
それならば、なんのために期待が存在しうるのだろう。
わたしの何に期待をしてもらえたのか。
わたしがわたしに期待してあげられるための、「報(しら)せ」くらいに思えばいい。
そう思わない?
恐縮する気持ちもあるけれど、誰かの中にぽわんと生まれた一感情に、エネルギーを費やしてまで振り回されなくてもいいのかもしれない。
そして、期待してもらえるって、なんて幸せなんだろう。
それくらいに思っていいのかもしれないし、
きっとそれでいいのだろう。
わたしはわたし。
時に、肩書きをするりと交わしふわりと飛び越え、
時に、肩書きをしなやかに扱う。
応えようが背こうが、どちらでもいい。
重荷になるなら、横に置けばいい。
誰かからの期待より、わたしからの期待を信じたいし、大事にポッケに詰め込みたい。
そしてわたしへの期待に、責任は一切ないのである。
期待することは、少し先のわたしにときめくことだ。
わたしはわたしに、ときめいていたいよ。
永く、そして彩やかに。
なんてことない、そんな贅沢。
いつもより、ほんの少しだけ、
愛を重ねて。
19:04
ほぼ定時ぴったりに会社を出る。
春の冷たい風にふわりと身を委ね、
夜に映える淡い桜色に惚れ惚れしながら自転車を漕ぐ。
ひと足先に帰り着いたと思った矢先、スーパーの袋を抱えた彼女が帰ってきた。
「ただいま。」「おかえりなさい。」
そこからちらりと覗いた立派な葱と、
ちょっぴり豪華なお肉。
ふふん。今日の主役のお出ましだ。
彼女がお風呂に入る間に、せっせと支度する。
ひさしぶりに立つキッチンは相も変わらずぴかぴかで、こまめに磨く彼女の姿を思い浮かべる。
濡れた髪を纏め上がった頃には、
半分食べ終えたところで、彼女が気付いた。
肝心の卵を忘れている。
顔を見合わせげらげら笑う。
卵なしでも美味しいんだ、という気付き。
それでもやっぱり卵がなくちゃね、という
疑いようもない事実の再確認。
卵ふたつでこんなに笑える。ナイスミス。
シメはうどん。
茶色く伸びたそれが、なあに、これまた美味しい。
ああ、おなかいっぱいだ。
片した後は、いつもより少しだけたっぷりめに肩揉みを。
目を離した隙にこてん、と睡魔に負けた彼女の寝顔がなんとも愛おしい。
23:12
大事に言い合った、「おやすみなさい」。
優しい優しい、4時間。
今夜は生まれて初めて過ごす、
ふたりだけの誕生日。
わたしを産んでくれた、大事な母の誕生日。
特別なことは何ひとつしてあげられないけれど、
いつもより、ほんの少しだけ。
愛を丁寧に、重ねたくなったんだ。
大事に大事に、惜しみなく。
「ふたりで迎えられて良かったよ。」
そんなふうに言う母をもっともっと大事にしたいし、
来年はふたり以上で祝ってあげたいとも思う。
わたしたちは、4人揃って家族だからね。
23:25
飲み会から帰った単身の父から電話が掛かってきたようだ。
「Happy birthday to you.」
上手とは言えないそんな父の歌声も、
母にとっては何よりの贈り物みたい。
隣の寝室で微笑む母の顔を浮かべながら、
今日も変わらず、眠りにつく。
あしたはいつもよりほんの少しだけ、
大事におはようと言いたいな。
それくらいには、今日という日が素敵で、
余韻をあしたに明後日に、持ち越したくなったのだ。
お母さん。
お誕生日、おめでとう。
零れ落ちない内に、必死に心に書き留める。
ただただ、夢中だった。
そこにあるものを、何度も何度も手に取っては確かめ、手に取っては愛おしく思う、そんな時間だった。
目の前に座る皆が、一言たりとも逃さまいと意識を向けてくれていることがわかった。
だからわたしも、湧いてきた想いをいつもの何倍も丁寧に丁寧に、大事に大事に掬い取った。そうでもしないと、誠実じゃない気さえした。
与えられた時間の中で、ひたすらにわたしがそこにいる意味を感じたし、目の前で聞き耳を立ててくれる彼や彼女らと、それを共有できた心地もした。
ひとしきり自分の話を終えた後に、皆に数々の問を立ててもらったけれど、
「生きる上で大事にしていることは?」
シンプルなこれは格別に好き。
するりと思考を交わして心から浮いて出た答えは、
「無理をしないこと」。
それは「楽をすること」とはまた違う。わたしの持つ言葉の中で見繕うと、「自然体で生きること」がいちばんぴったりと似合うように思う。
人生において、ひとは何度も何度も選択を迫られる。いつ、どんな時に、どんなものの中から選び取れるかなんて誰も知り得ないから、大きな選択に対して、恐怖や不安に近いものを覚えるんじゃないかな。
ただ、備えておくことは出来ると思うんだ。
いつその時が来ても大丈夫なように。
わたしは、いつだって自分を信じてあげられていれば、どんな選択をしようとそれがその瞬間のベストな答えなんだと思う。
まずは自分の自然体な状態を知ることから、愛すべき自分を認めてあげることから始めてみよう。
(ここはあんまり言語化出来ていないから、また今度ね。ほら、無理はしない、無理はしない。)
さて。
長い長い前置きはさておき、生まれてはじめて、ゲストという形でオファーを頂いた。
それに加えて、社会人という肩書きをぶら下げて誰かの前に立つのは始めてで、背筋がしゃんとした。
“生きること”という、大きく広く、深く尊く、貴いものにみんなが触れる。
そんな時間に、わたしの時間を重ね合わせられることはとても光栄だったし、背中を押すことなんてしたくないけれど、あなたがあなたでいてくれれば大丈夫だからね、と、不安な未来に少しでも期待や安心を添えられたのなら嬉しいなと思う。
今のお仕事は素敵なお仕事であり大好きなお仕事だけれど、そんなことは横に置いて、わたしの思考、信じるもの、愛するものの愛し方、みたいな、目に見えないそれらに好奇心の矛先を向けてくれたこと。
とてもくすぐったくって、終始照れくさい気持ちだった。
それと同時に、目の前に座る彼や彼女の思考を覗きたくなったし、奥底に流れる愛に触れたくもなった。
ああ、愛おしい時間はいくらあっても足りないね。
そうそう、わたしはわたしのこともみんなのことも信じたいんだという話をしたときに、ある男の子が「信じた末に裏切られたときはどうするの」といった問を渡してくれたの。
はっとした。そうか、わたしはそんなことを伝えたいんじゃないんだ、と。
信じた先にどんな結果が待っていようが言ってしまえばどうだって良いし、
もっと言うと、信じようが信じまいがどっちだって良い。
信じるという行為が、わたしにとって生きる行為そのものであることを、皆に知って欲しかったんだ。
「何をしている時の自分が、一番愛すべき自分であるだろう。」
それを知っておくだけで、認めてあげるだけで、愛してあげるだけで、どれだけ生きることが豊かになるのか。
わたしはわたしの生きることを以て、そんな答えを見つけたよ。
きっとそれが、わたしが今日この場において一番伝えたかったこと。
(もちろん意識なんてしてないだろうけれど、)
ひとつの問とともに、そんな大事なものをこっそり教えてくれた彼には、とびっきりのありがとうを贈りたいし、そんな彼のことも当たり前に信じたいし、彼が愛する彼はどんな彼だろうと、ひたすらに考えてみたい。
そしてまた会えたときに、今度はわたしがこっそりと、耳を傾けてみようと思う。
・
素敵な場に、ともに手を添えられたこと。
嬉しく、そして誇らしく思う。
おかげさまで、わたしも働くことと生きることに対して、もっともっと大事に向き合えそうだよ。
ココカラカイギのみんな、どうもありがとう。
natural.
林檎が熟したから、採る。
ただそれだけのこと。
「自然と、」
いつの間にか口癖はそれだった。
本当に大事にしたいものは、
わたしさえ知っていればいい。
あとは流れに身を任せたいなあと思う。
そんな口癖、もっというと、わたしの思考の癖に気づかせてくれたのは、ひとりの大事な存在だった。
「あなたはどうしてブログを書くの?」
ふいに、聞かれた。
答えはシンプルだ。
「言葉がわたしのために生きてくれるから。」
紙の上、画面の上。
はたまた誰かの心の何処かに、
その瞬間にわたしが生きたという証を優しく残しておきたい。
要するに、わたしによるわたしのためのエゴ。
だからこそ、
「~な文章を書きたい」 という意志を持って
言葉を生み出したりはしない。
自然と、湧いてくる心からの願いに気付き、
言葉にし、世に放ってあげる。
それでいいと思う。
わたしの想いを、
知りたいひとが知ってくれたら。
耳を傾けたいひとが傾けてくれたら。
それはやっぱり、ほんのりと嬉しいけれど。
いつでもわたしはわたしのために、言葉を紡ぐ。
それがいいし、それはとっても心地良い行為だ。
自然と、何かをすること。
易しいことではないかもしれないけれど、
自分のために生きているようで、どうしようもなく優しい気もする。
ましてやそれが誰かのためになったのなら、
それはそれは素敵なことかもしれない。
自然と、生まれた言葉を使い、
自然と、生まれた興味の芽を摘み、
自然と、生まれた夢に足を向け、
自然と、生まれた愛を育む。
自然と、生まれた生命。
自然と、死に向かうそれ。
そんなわたしたち人間に、
ぴったりお似合いな生き方ではないかしら。
働くということ。
2018.10.22 ~
この度わたしも、
『働くこと』を始めてみました。
株式会社CAMPFIREさんにお世話になっております。
CS(カスタマーサクセス)といって、キュレーション業務が主です。
「あなたがキュレーターだったらだったらいいな。」
始まりは、大好きな先輩のそんな言葉。
一、大学を辞めること。
二、スーツを着ての就活はしないこと。
この二つの決断がわたしらしさを守ってくれた一方で、
行き着く場所が見えないことへの不安は、思っていたよりも長く続いたように思う。
( 強がりだからひみつにしていたけれど、
実はけっこう落ち込んでいました。とほほ )
そんなわたしにとっての救いは、
誰よりも、わたしがわたしを信じてあげること。
信じるということは、
自分を守ることと等しい。
信じるという行為は、
形のない力のあるお守りだ。
大丈夫だよ。ちゃんとあなたにぴったりと添う場所はあるからね、と。
さて。
お仕事選びで大事にした、問いの話をしてみる。
「将来何をしたいの?」
何かにつけて手渡される問いにおいて、
「人のためになることをしたい。」
気づけばいつも、誰かの顔が浮かんでいたように思う。
ありきたりかもしれないが、シンプルに、わたしの根底に流れるもののようだ。
どんな仕事でも人のためになるんだよ、と
両親はいつもそう言っていたし、その通りだと思う。
もっと言うと、お仕事なんていくらでもあるし、お仕事は自分で作る時代、とまで言われているからね。
そんな時代に生きるわたしにとって大事な問いは、
「なぜそれをわたしがする必要があるのか?」
つまり、「わたしはなんのために生命を使うか?」
だった。
お仕事を始めて3か月。
一緒に生きるひと、生きていたいひとが圧倒的に増えたように思う。
それは生きる意味が増えたことと等しい。
わたしが働くことに意味を与えてくれるのは、いつもユーザーさんであり、仕事仲間だ。
『生きること』の中に『働くこと』があるというよりも、
『生きること』と『働くこと』のふたつがぴたりと重なる感覚。
『働くこと』で、そっと静かに、
『生きること』が青々と裾野を広げていく心地。
「わたしは何のために生命を使うか?」
生命の使い方。使う場所。
探せばいくらでもあるし、
探しても探しても、正解だけはない。
ただひとつ言えることは、
わたしにしかできないことなんて、この世界になくったっていいということ。
その代わりに、わたしがそれをすることに意味があることばかりだから。
世界は思っていたより、ずっとずっと優しい。
みんなに等しく生きる権利が与えられているって、素晴らしいことじゃないかな。
そんなふうに、『働くこと』を通して『生きること』を感じられたということ。
それはわたしにとっての希望でもあり、
わたしの周りの、これから社会に出る子たちの希望でもあるかもしれないと思うと、
やっぱりわたし一人で生きているわけではないことに喜びを感じる。
終わりに .
そうそう。
「好きなことを仕事にするには?」
そんな問いが、この世界にはいっぱい溢れているけれど、わたしに言わせてみれば、仕事をしてみたらそれはちゃんと好きなことだった。
そんな風に、軽やかに思うのだ。
自分を信じるって、ちゃんと未来の自分を幸せにしてあげるってことなんだな。
大人になること。
『 生きづらい世の中だね。』
そんなふうに
世の中を謳うようになったのは、
大人になった証かしら。
・
“ 大人になること ”
それが意味することはなんだろう。
一度、心に尋ねてみて欲しい。
わたしの“ 大人になること ”は
“ 怒ること ”が出来なくなることであった。
出来なくなる、というよりは
方法を忘れる、のほうが
表現は適切かもしれない。
そんなわたしが
“ 怒ること ”を思い出した話を
こっそりしよう。
・
女性であるということ。
わたしは誇りに思っている。
しかし、そうでない瞬間もあった。
女性であることを
恨み、悲しみ、憎んだことがあった。
こればかりは
不可抗力というのかしら。
意思に反して、力という力で
身に纏うものを
身体と心の自由を
生きた心地を
奪われた経験がある。
記憶はやけに曖昧さを帯びているのに、
感情はやけに鮮明である。
そのときのわたしは
激しい濁流に逆らうことは
こうも無駄なことなんだなあ、とか
呑気なことを考えていたように思う。
女性であること。
人間であること。
わたしであること。
全部ぜんぶ虐げられたような感覚。
恐怖。苦しみ。悲しみ。虚しさ。絶望。喪失感。
ひと口に名前を付けられないほど
色んな感情が入り交じっていた。
一度黒に塗ってしまえば
どんな色を混ぜようとそれであるように、
黒一色で心が覆われていた。
ただ思えばそこに、
【 怒り 】だけはいなかったように思う。
どうしてだか、
ひとり置いてけぼりにしていたように思う。
その事実でさえも、
当時は気付かずにいたのだけれど。
・
そして、一年の月日が経つ。
そして、恩人に出会う。
ある蒸し暑い晩
彼女とビルの屋上で胡座をかいて月を見つめていたら、
ふと 話したくなった。
わたしが女性であることを、
取り戻したくなった。
ありのままを話した。
半分ヤケになっていたのかもしれない。
彼女は怒った。
憤怒した。
優しい眼差しだけはそこに据え、
わたしのために怒ってくれたのだ。
わたしは驚いた。
無理に同情することはせず、
彼女は“わたしの友人である彼女”として
怒ってくれたのだ。
「 わたしも怒っていいんだ。」
“ 怒ること ”をわたし自身に許した瞬間、
ようやく涙が溢れ出た。
一年前のわたしの涙が、今になって出てきた。
涙だけではない。
それがほかの感情と手を繋いで出てきてくれたおかげで、
みんなまとめて手放すことが出来た。
しとしとと、
春雨のように涙降る夜であった。
・
さて。
“ 怒ること ”を忘れて、一年。
“ 怒ること ”を思い出して、一年経った。
こうして顔の見えないあなたに
わたしの決して綺麗だなんて言えない過去を
手渡すことが出来ているのは、
お祝いだなあと思う。
大人になることは、
経験を積み重ねることだ。
存在しなければよかった経験でも、
それが存在したから今のわたしが存在する。
時間を掛けて、
経験を自分の一部にしていけばいいと思う。
・
もう一度、あなたに問いたい。
“ 大人になること ”
それが意味することはなんだろう。
怒ることを忘れるのは
大人になった証でもなんでもない。
生きづらい世の中だなあと謳うことも
大人になったからで済ませたくない話である。
大人になることが、
感情を疎かにしてしまうことや
生きることに後ろ向きになることならば、
わたしはずっとずっと子どものままで居ようと思う。
それならば、
大人を嗜むことが出来る日まで
子どもで居ることを嗜もうと思う。
『 生きづらい世の中だね。
それでも生きていたいよね。』
生きることを優しく願える、
その日まで。