応えるための、期待じゃない。
生まれて初めて、「リーダー」という肩書きを頂いた。
ふいに上司に手招きで呼ばれ、自然と頷くわたしがいた。
「ただ、あなたに期待値を込めたくて。」
そんなふうな理由である。
思わずくすりと笑う。
それと同時に、手渡してもらったそれはふわりと軽やかに、優しく肩の上に舞い降りた。
そもそもリーダーとは、どういった役割かしら。
まずはわたしにとってのリーダー像を探すところからだ、と妙に興奮して、久々に自分に大きく期待したくもなった。
それを受けて、変わったことは沢山ある。
正確に言うと、今までの想いや意思、志や願いの先に広がるものに、ちょこんと触れた感覚。
前に進みはしなくとも、確かさが増したようなそんな気もした。
後後のわたしのために、備忘録として記そう。
まずは「わたしが働くこと」と同じくらいかそれ以上に、「あの子が働くこと」も大事にしたくなった。
見逃していたかもしれないひとりひとりの瞳の動きに目を凝らし、息遣いに耳を傾ける瞬間がじわりじわりと増えてきた。
みんなが心地好く働ければいいなという想いはそのままに、その一部であるだけでなく、それら全部まとめて守りたくなった。
守るために強くなりたいと思った。
時には優しさの形を変えたいと思った。
どうしようもなくチームが好きだし、
どうしたって譲れない愛おしい仲間だと思った。
たまには先回りしてみたいし、時には一番後ろについて、ひとりのんびり見守りたいなとも思った。
何ひとつ後ろ向きに感じるものがないのは、
もしかすると驚くべきお祝いなのかもしれない。
でもその理由もちゃんと明らかで。
わたしの仲間が素敵すぎるおかげだし、
何よりリーダーの在り方を定義しないまま手渡してくれた、懐深い上司のおかげ。
考える余白があることで、自由と安心と、それから多様であることを許してもらえた気がするよ。
「期待値を込めて。」
そう言ってもらえたことが、何よりの希望だと思う。
ただ、「期待」とは、応えるためにあるのではない。
最近はそんな気がしてならないし、
そうであって欲しいなという願いも込めて。
それならば、なんのために期待が存在しうるのだろう。
わたしの何に期待をしてもらえたのか。
わたしがわたしに期待してあげられるための、「報(しら)せ」くらいに思えばいい。
そう思わない?
恐縮する気持ちもあるけれど、誰かの中にぽわんと生まれた一感情に、エネルギーを費やしてまで振り回されなくてもいいのかもしれない。
そして、期待してもらえるって、なんて幸せなんだろう。
それくらいに思っていいのかもしれないし、
きっとそれでいいのだろう。
わたしはわたし。
時に、肩書きをするりと交わしふわりと飛び越え、
時に、肩書きをしなやかに扱う。
応えようが背こうが、どちらでもいい。
重荷になるなら、横に置けばいい。
誰かからの期待より、わたしからの期待を信じたいし、大事にポッケに詰め込みたい。
そしてわたしへの期待に、責任は一切ないのである。
期待することは、少し先のわたしにときめくことだ。
わたしはわたしに、ときめいていたいよ。
永く、そして彩やかに。